大江健三郎の長編小説『キルプの軍団』(1988年)は、オリエンテーリング部の主将を務める高校二年生のオーちゃんが、ディケンズ『骨董屋』の原書を読みながらさまざまな体験を重ねていく物語です。
暴力犯係の刑事でありながらディケンズを深く愛する忠叔父さんの指導のもと、オーちゃんは注釈や挿絵を手がかりに作品の社会的・文化的背景にも目を向け、古典文学を多層的に読み解いていきます。
さらに物語は、ドストエフスキーやダンテの『神曲』にも連なり、文学作品同士の影響関係や「喜劇」としての構造を浮かび上がらせます。
『キルプの軍団』は、ディケンズの想像力を現代に引き寄せながら、若い読者に向けて文学の読み方と書き方を示す作品であり、比較文学の入門書としても、ディケンズ文学の入門書としてもお薦めできる一冊です。
大江健三郎『キルプの軍団』トリビア集
- 本作はディケンズ『骨董屋』の悪役クィルプ(Quilp)を核心に据えて書かれた小説である。タイトルの「キルプ」はその名に由来する。高校二年生の主人公オーちゃんが『骨董屋』の原書を読み解いていく過程そのものが描かれ、小説の読み方を示す文学入門的性格ももつ。
- 雑誌『季刊へるめす』連載時のタイトルは「キルプの宇宙」。単行本化に際して『キルプの軍団』に改題された。全125章のうち83章以降は書き下ろしで、単行本で大きく姿を変えている。
- 単行本では、ディケンズ『骨董屋』の英語引用に対するオーちゃんの日本語訳(《 》)が大量に追加された。連載時には訳がなく、読者は辞書を引きながら読むことを暗黙に求められていた。
- 主人公オーちゃんのモデルは著者の次男、父である作家Kは大江健三郎自身、ディケンズを教える忠叔父さんは実弟(当時、愛媛県警の警部補)。主要人物の多くが家族をモデルにしている。
- オーちゃんの兄の台詞が太字ゴシック体になっているのは、そのモデルである大江光(大江健三郎の長男)が、自分が言ったとされる台詞を探しやすくするため。
- オーちゃんは17歳の設定。これは大江の問題作「セヴンティーン」(1961)を踏まえ、1980年代における新たな「17歳」を描こうとした試みと考えられる。
- 本作は、大江が恩師の助言に従い「3年間ひとりの作家を集中して読む」習慣の成果でもある。ディケンズを徹底的に読み抜いた時期の総決算として書かれた作品である。
- 作中では、父の書庫にある「Dの箱」から研究書が取り出される。そこにはディケンズだけでなく、ダンテやドストエフスキーの本も入っており、本作を読み解く鍵となる三つの古典が示唆されている。
- タイトルの「軍団(レギオン)」はローマ軍団だけでなく、聖書では「多数の悪霊」を意味する語でもある。ディケンズの表現 “a legion of Quilps” に由来し、無数の悪意に取り囲まれる感覚を示す。現代では、SNS上で多数の攻撃が一人に集中する状況を想起させる。
- 主人公オーちゃんは、後の作品『静かな生活』(1990年)にも浪人生として再登場する。『キルプの軍団』は単独作品というより、大江の私小説的世界の中核をなす一篇でもある。
本作についてさらに詳しく知りたい方は、 noteに公開している連載解説をご覧ください。
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大江健三郎『キルプの軍団』を読む
ディケンズ研究者の視点から岩波文庫版『キルプの軍団』(2018年)に注釈を付けました。併せて、ご参照ください。
大江健三郎『キルプの軍団』注解